小代焼の歴史、窯元、通販について
小代焼の歴史
小代焼の歴史は1632(寛永9)年、細川忠利が肥後に国替になった際、小岱山麓において、朝鮮出兵で連れ帰った陶工にやきものを作らせたことから始り、当初は、大名向けの茶陶として栄えたといいます。
その後明治に入り一度は途絶えますが、昭和初期に再興を果たします。ですが、茶陶だけでは生計が成り立たず、周辺の農家や漁師のための大物の容器類をつくるようになり、それは次第に、食器類および焼酎と日本酒の両方をたしなむ土地柄ゆえの雲助などの製作へと転化されてきました。現在、荒尾市、南関町を中心に窯元は12軒。その中でとくに民窯として作陶に励んでいるのが、ふもと窯と瑞穂窯といわれています。
小代焼の特徴は、日本民藝館の館長も務めた柳宗理が、「雪の降ったような白」と称した釉薬にあります。
小代焼の土は、およそ1300℃という高い温度で焼成する必要がありますが、白化粧の場合、高温に耐えられずに消えてしまいます。そのため小代焼では、通常の藁灰釉を掛けた上に、稲の実の外皮を使用した籾殻灰釉を掛けるという、釉薬の二重掛けをおこないます。そうすることで、後者の籾殻灰が溶けずに白がたっぷりと残り、小代焼特有の白濁した色合いが生まれます。
この釉薬の研究に情熱を注いだのが、小代焼ふもと窯の井上泰秋さんと瑞穂窯の初代窯主、故・福田豊水さんでした。このうち豊水さんのDNAを受け継いでいるのが、現在の窯主である福田るいさんです。「父が遺した釉薬、とくに藁灰にはこだわりたい。最近は焼き物にもこだわり、コバルトではなく、藁灰で藍色をだせるようになりました」この美しい青から瑞穂窯の焼き物は「青小代」と称されることもありました。
いっぽう、井上さんの焼くうつわは、熊本国際民藝館の創始者、外村吉之介により「黄小代(きなしょうだい)」と命名されました。
ふもと窯ではかつて、灯油と薪を併用した窯で焼いており、窯の中の温度が高まると硫化水素が発生し、それが藁釉と融合することにより、黄色みがかった色となりました。ですが、1976(昭和51)年に登り窯を築いてからは、もうこの色はほとんど出なくなってしまいました。しかし井上さんはその色には執着せず、その後も本格的な現代小代焼の製作に力を注いでおられます。
主な取扱窯元・作家
小代焼ふもと窯 井上尚之
井上尚之さんは小代焼ふもと窯の二代目として生まれ。小石原焼の太田哲三氏に師事。
熊本へ戻った後は、化粧土をスポイト状の筒を使い器の表面に模様を描いたスリップウエアと呼ばれるうつわを主に制作されています。
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小代焼瑞穂窯 福田るい
福田るいさんは昔ながらの技法を生かしつつ 今の生活スタイルを考え一つの使い方に縛られない、使い方を自分で考えてもらううつわを
作られています。
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通販・店舗で取扱のある器の種類
皿、角皿、小鉢、鉢、角鉢、すり鉢、お茶碗、丼、蓋物、湯呑、蕎麦猪口、フリーカップ、マグカップ、片口、ピッチャー、急須など